エンジニリングの本質ってなんだろう?

長いこと、今現在会社員として
取り組んでいる仕事について考えてきて
考えれば考えるほどわからなくなってもがき苦しんでいたのですが
ようやくちょっと、何かが見えてきた気がします。

技術職でIT系のものづくりをしているのですが、
そのものを作るという行為、いわゆる開発/エンジニアリングという
行為の本質がずっとわかりませんでした。

わからないというのにも、かなり色々なレベルがあるのですが

・なぜ設計書が複数種類あるのか必然性がわからない。
・要件という言葉で抽出される事柄の意味がわからない。
 教科書的な必要性は「知って」いるが理解していない。腹に落ちていない。
・レビューの場でみんな思い思いにばらばらの事を言ってるように見える。
・設計における正しさとは何か?何を拠り所にするのか?
 こだわりが必要というが人によって基準が違って大丈夫なのか?
 それって単に認識があっていないだけでは。
etc・・・・(あと100行くらい続く)

で、今なんとなく見えてきたのは
ものを作るという行為は問題を解決するための手段を想像する行為であり、
その解決すべき問題や解決手段としてのもの、そしてそれが果たす機能について
どこまで深く考え続けて考えぬいて、ロジックの集積を形にしていくのか、
という一種の思考の職人芸のようなものであり、
ある種非常に泥臭い行為であるであるということ。

そして、人がつくったものにはその製作者の思考がやどっているということ。
何を解決したくて、どう解決したくて、なぜその解決方法じゃないといけなくて、
なぜこのものはこの形をしているのか。その全てにその人が構築した思考の体系の中で
与えられる理由があり、その論理体系に従うと確かにそれはその形でないといけない
とはっきりと納得ができる、そういうものが良いプロダクトであると感じました。
それが自動車であれ、マンホールであれ、ザグラダファミリアであれ
ソフトウェアであれ、パワーポイントの提案書であれ。。

ですので、技術者は他の人が作ったものを見るとき、
そこにその人が考えぬいた思考の痕跡が宿っているかどうかを見ます。
思考の浅い人の作ったもの、思考を作ることを好きじゃない人の作ったものは
見る人が見ると一発でわかります。一貫性が感じられないから。哲学が感じられないから。

そう、哲学なんです。ものつくりは論理・・・勿論これは正しい。
問題の分析が、ロジックの積み重ねが、作ろうとしている未だ世の中にないもの
がどのような振る舞いをするのかという事に対する執念に似た想像が
ものの形を決めていきます。レビューの場もまたしかり。

でも、やっぱり複数の選択肢の中から、何らかの意味合いで
「正しい」答えを正しい答えのない世界の中で選ばないといけない時
というのがしばしばものつくりの一連の流れの中であって
その時にその人が正しさの拠り所とするのは、
それまでのその人の、そのエンジニアの人が職業人生の中で
大事にしてきた積み重ねてきたその人にとっての価値観であり信念の集積なんです。

そして、すごくこだわってこだわりぬいてきた人の
その集積は、もう哲学といっても全然大げさでないくらい
ゆるぎない思想の体系になってたりしてすげーなーと!
ものを通して人間を見るというかそういう気分になってきます。

そして、そういう目線で会社からの岐路を歩いていると、
目にするあらゆるもの、信号-車-お店-駅のホーム-電車、スマホ、服、靴、道
街の景観、家、ありとあらゆるものが人の手によって作られたものであり
その一つ一つにエンジニアの思考と魂がこもってると考えると
すっげー楽しくて、おおっ!世界ってこんな姿をしていたのか!
という気持ちになります。

かようにわかるということは、
それまで見えなかった新しい世界への扉を開くという事です。
わからないときはちょっと泣きたくなるほど苦しい。
自分がどこからきてどこへいくのか全くわからない迷い子のような気持ちになります。
でも、ずーーーーーっと、しつこくしつこく考え続けてると
どこかで何かが見える瞬間があって
めっちゃ楽しい!です。Eureka!です。

なので、考えること、わかる事がすきです。楽しいです。